東京五輪、いよいよ開幕する。
その直前になって開会式の芸術監督をつとめる小林賢太郎市が過去の差別的発言を理由に解任されるという事態が起きた。
小林賢太郎といえばあのラーメンズの人だ。世間にうとい僕でも知っている。
少し前に小山田圭吾氏の辞任騒ぎもあったがそのときも「あのコーネリアスが五輪関連の仕事に就任していたのか」と少し驚いた。
オリンピックという国家的なイベントの人選として、若者向きの音楽やお笑い、演劇の分野で活躍してる人を起用するのはどんなもんでしょう、という疑問がなくはないです。
これは彼らの仕事のレベルが五輪開会式にふさわしいレベルではないと言っているわけではなく、そもそも畑違いではないかと思うのです。
若者向けの音楽や笑いはどちらかといえばアングラな、反社会的なものだ。差別なども多めに見てもらえるどこか後ろ暗いところのある日陰の世界だ。
そういう世界で人気や実力ある人を、海外の人も見ることになる「どこへ出しても恥ずかしくない」イベントに起用するのは、一見栄誉なことではありそうですが、実はリスクが高く、使う側、使われる側双方にとってあまりメリットが高くないのでは、と思う。
繰り返しますが、辞任・解任された方々はその属する世界において一流の仕事をしていると思います。ただオリンピックという「どこへ出しても恥ずかしくない」国家的事業には向いていなかった気がするのです。
こう書くと僕が東京五輪を崇高なイベントと受け止めているように思われそうですがとんでもない。崇高は崇高かもしれませんが自分自身はほとんど関心ありません。
もともと今回のオリンピック、個人的には中止すべきだったのではと考える派です。だけど開催当日になってしまった以上もうどうしようもありません。
今回のオリンピック、実にいろいろケチがつきすぎました。もちろんダメ押しは「コロナ」です。
これまでにないほどの規模で感染が拡大しながら、それでも開催を強行する国家の姿勢に対し、僕は大きな不信感を抱きました。
だからって何ができるわけでもありませんが。国民なんて無力、お国のためにはギセイにされてしまうのです。あの太平洋戦争から変わっていません。
この先、何十年もたって、現在の状況を肌で知る人たちがこの世からすべていなくなってしまったころ、このオリンピックはどんなふうに記録されるでしょう。
「コロナの危機に勇気をもって立ち向かい、見事に大成功をおさめたオリンピック」とでも伝えられるのでしょうか。国家によって。
まあ僕個人はたとえこのオリンピックがその後賞賛を浴びることになろうとしても、
「大多数の国民や医療の専門家の声を無視し、ひと握りの人々の利益のために国民おおぜいの健康を危険にさらして強行されたオリンピック」
だったと、後世に伝えていこうとは思っています。