日常ゴーゴー!

取るに足らない日常の記録にただただ徹するブログ。

ドキュメント映画「福島は語る」。

f:id:nanasee:20210306100833j:image

 

3月11日がまたやってくる。

 

震災から今年でちょうど10年。マスコミもこの時期は震災関連の報道が増えるが、今年はとりわけ目立つような気もする。

 

先月末、とあるドキュメント映画の上映会に参加してきた。映画のタイトルは「福島は語る」。

 

3.11に被災し、原発の事故に遭遇した人々に取材した作品だ。

 

上映時間はなんと5時間20分。それだけでもこの映画の問題提起にかける本気度がわかる。

 

そして、それを見ようと会場の日比谷図書館文化館まで足を運んだ参加者の問題意識の大きさも。

 

上映会のスタートは午前10時半。途中二度、10〜20分ぐらいの休憩をはさんで映画の終了はたしか3時半ごろ。さらにそのあと映画を作った土井敏邦監督のトークライブもある。

 

自分はけして震災や原発事故に対し、強い問題意識があるわけではない。震災直後は津波が押し寄せた海沿いの町へボランティアに行ったがそれ一度きりだし、相変わらず被災地から遠く離れた場所で震災前とそれほど変わらない生活をのほほんと送っている。

 

上映会当日、埼玉から1時間半かけて会場の日比谷まで足を運ぶ。少し遅れてホールに入るともう中は真っ暗でスクリーンでは映像が流れている。

 

作品は被災者が震災への思いを語る姿を正面から淡々と撮り続ける。派手な演出もなく、ひたすら当事者の発言を、表情を撮り続ける。5時間以上にわたる上映時間の大半がそんなインタビュー映像だ。

 

カメラに向かい語った方々は総勢27名。震災で職を失ったひと住むところを失ったひと家族を失ったひと。

 

我が子への放射能の影響をおそれ被災地を離れた若い母親。逆に福島にとどまり続けることを選び、壊れかけた自宅や仮設住宅に住み続ける人々。被災地で作物を作り続ける農業従事者や原発で働いていた労働者。

 

老若男女、さまざまな事情を抱えた人たちが語る話の中で共通していること、それは震災はいまでも終わっていないということだ。

 

あの日からちょうど10年がたつにせよ、けして節目の年などではない。カメラの前で語る人たちにとって、節目などというものはありえないのだ。多くの問題はほとんど解決をみないまま、なのに世の中は急速にあの大災害と事故を忘れつつある。

 

登場する人々は僕たちとなんら変わらない。しかしその言葉は重い。無言の表情が悲しみと怒りを物語っている。

 

当事者がその思いを吐き出せたのは、話の聞き手でもある土井監督の人柄によるところも大きいだろう。映画終了後の約1時間にわたる伊勢真一監督とのトークからも、そんな人となりが伝わってきた。

 

上映会場を出ると日比谷の高層ビル街だ。そういえばこの近くには東電本社のビルがあったことを思い出す。原発への怒りや憎しみの声を集めた作品が、まるで地雷を仕掛けるように東電の足元で上映されたのだ。

 

たしかにあの3月11日以降、何も変わっていない。震災直後、これで世の中が変わるんじゃないかとボランティアなどに動いた僕も、今ではあいかわらずの毎日を送っている。

 

自分の小ささに無力感をおぼえながら、高層ビル群から目を伏せるようにして帰りの地下鉄に乗った。